1 渓流

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   *  夕闇が訪れたのは予想以上に早かった。  この渓流で一番大きな岩の上に寝転がってのんびりしている間に、気付くと辺りは暗くなり始めていた。  いつの間にか陽は傾き、ヒンヤリとして肌寒い空気が夜の訪れを告げる。 (いかん、帰りのバスの時間があった)  慌ててコートを羽織り、降りてきた山の斜面を駆け上がる。  山の様子は昼間とは全く変わっていた。元々何の目印もない所を漠然と歩いてきたので、曖昧な記憶を頼りにひたすら枯れ木の生い茂る中を進むしかなかった。  だが、やみくもに歩き回ったのが余計に悪かったのかも知れない。しばらく歩き続けると、自分がどこに居るのか全く分からなくなってしまった。  山の中はみるみる薄暗くなり、数メートル先すら見えなくなっていた。山の稜線と夜空の境界が見分けがつかなくなる頃になってようやく、私は自分が迷ってしまったことに気付く。 「灯り……」  慌ててズボンのポケットからライターを出して火を点けてみたが、明るくなったのは手元だけで、山の風景は相変わらず漆黒の闇に覆われていた。  光の届かない山の中がこれほど暗くなるとは、思ってもいなかった。ほとんど視界のない山の中を焦燥感に急かされてしばらく歩き回ってみたが、足の疲労はすでに限界に達していた。 「まったく」  仕方なく切り株を見つけ腰を下ろす。大きな溜息が自然と口から洩れた。  こんな小さな山の中でいい歳をした男が迷子というのも、気恥ずかしい話だ。それに誰も私がここにいることを知らない以上、捜索が来ることもない。  とりあえず落ち着こうと煙草に火をつける。ライターの明かりで腕時計を照らしてみると、バスの最終時刻はとっくに過ぎていた。 「まあ、死ぬことはないだろ」  自分に言い聞かせるように、あえて大きな声を出して独りごちる。  確かに陽が落ちてから多少肌寒くはなってきたものの、夜中でも凍死するほど温度が下がる時期でもない。今さらやみくもに歩き回って足でも挫いたら、それこそ大ごとになりかねない。最悪この場所で一夜を過ごしたとしても、空腹さえ我慢すれば別に問題はない。  コートのポケットを探ってみるが、そこには煙草とさっき拾った団栗の実が一つあるだけだった。私は団栗の実を指で何度か転がした後、苛立たしげに遠くに投げ捨てる。
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