1 渓流

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「こういう時に限って、携帯を持ってこないんだからな」  妻が家を出てからは、携帯電話を使うことは全く無くなっていた。今日だって気分次第で出かけてきたので、財布と煙草以外何も持ってきていない。 (……仕方ない。とりあえず明日の朝まで待ってみるか)  コートの前ボタンを閉じて、なるべく風が衣服の中に入ってこないように襟を立てる。  その時突然、木の上から黒い鳥らしき影がばさばさと飛び立つ。驚いて見上げると、微かに枝が揺れているのが分かる程度で、すでに空は真っ黒な闇に覆われていた。 「まいったな」  よく山菜採りの老人が山の中で遭難したというニュースを耳にするが、自分だって似たようなものだ。もしこのまま衰弱死したら、女房に逃げられた中年男が小さな山の中で遭難死、と小さく新聞の三面記事の片隅に載るのだろうか。 「……まさかな」  そうはならないだろう。いくら山の中とはいえ、樹海ほど深い森でもない。明日の朝になって視界が開ければ、さっきの渓流を下流に降りるなりすれば山から出られるだろう。渓流釣りの人がいるかもしれないし、こんな切り株があるところを見ると林業関係者も出入りしているに違いない。  そもそも、この山に入った時に農家の人らしき老婆とも会っている。遠くない所に民家や集落があるのだろう。そう考えると、遭難する方が難しい山なのかも知れない。 「後で考えたら、笑い話程度のことだ」  煙草の煙を勢いよく吐き出すと、白い煙は真暗な闇の中をぐにゃりと拡散していった。  すっかり日の暮れた森の中で、なるべく風の当たらない木の幹を探し、寄りかかるように座り込んだ。特にアウトドア派でもない私にサバイバル知識などあろうはずもなく、こうしてぼんやりとコートにくるまって、ただじっと夜明けを待つしかなかった。  腕時計を見ると、針は午後九時過ぎを指していた。  ひどく喉が渇いていた。さっきの渓流に戻ろうかとも思ったが、こんな暗闇の中で足でも滑らせて川の中にでも落ちたら大変だと、すぐに諦める。  木の幹に寄りかかったまま、目を閉じる。  夜のとばりの中、時折風に揺れる木々の間を、ばさばさと鳥の飛び立つ音が聞こえてくる。くるまったコートで体が少し温まってくるにつれ、全身が酷く疲労していたことに気付く。  半日近く山の中を歩き続けた疲労と空腹で、体が泥のように重たくなっていった。
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