2 鬼火

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 それからすぐ、会社を辞めた。  定年はまだ先だったが、そんなことはどうでも良かった。愛情云々というより妻が居るからこそ働けたし、ささやかな老後なんてものも、傍らに妻が居る前提でこそ成り立っていた話だ。 「あなたは、それほど幸せに執着していないのよ、きっと」  それは、妻がよく私に言った台詞だ。 「そんなことはないさ。幸せを感じたいから仕事して、家を買って、ささやかながら蓄えもしてきたんだろ? 幸せを望まない人間は居ないよ」 「そうかしら? 私が居るからなんじゃない? あなたはそれをそんなに望んでないのよ、きっと」  語尾に『きっと』と付けるのは、妻の口癖だった。  そう言われれば、自分でも確信は持てなかった。子供を作らなかったのは妻の意思だった。もしかするとずっと前から、妻はこうなることを予感していたのかもしれない。  そうして何もすることが無くなった私は、今朝何となく思いつきで家を出た。もちろん失踪するつもりもないし、世を儚む気もない。ただ、誰も私のことを知らない、そんなどこかへ行ってみたかっただけの話だ。周りから見たら女房に逃げられた中年男が、我を見失って放浪しているように見えるかも知れない。いや、実際そんなものなのだろう。  行き先も決めず電車に飛び乗り、ふと車窓の景色の片隅に見えた山に向かってみようとバスに乗り替えた。  そして、結果が迷子だ。  これまでも自分の意志でやり始めたことで、上手くいった試しがない。妻には分かっていたのだろう。物事に対する遂行能力や判断力が、私には致命的に欠けているということが。 (……まあ、いい。自分一人ならタイミングが悪かろうか何だろうか、どうにかなる)  きっと傍に妻が居たなら、「あなた、諦めが早いのよ」と言って笑うのだろう。
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