2 鬼火

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2 鬼火

「今日の晩ご飯は、鰈の煮付けにしましょうか。あなたの好物の」 「ああ、構わんよ」  あの日の朝も、何も変わらなかった。  何もかもがいつもと同じ、日常の風景だった。  私は新聞を広げながら朝食を食べ、妻はテーブルをはさんで私の向かいに座り、夕食の献立の買出しリストを書いていた。  それはこれまで何千回と繰り返してきた、日常。 「ほら、また。新聞を見ながらだから、何を食べているのか分からなくなるのよ」  そうだな、と気のない返事をしながらも、私はいつまでも新聞を閉じようとしない。  妻はわざと私の皿を遠くに寄せる。私はテーブルの上を箸でつついていることに気付き、苦笑いしながら新聞を畳む。そんな私を見て、妻は柔らかく笑う。  それが妻との最後の食事になるとは、あの時は全く思いもしなかった。  会社から帰宅した私を出迎えたのは、食卓に整然と並べられた夕食の皿と、一枚の離婚届だった。寝室に行くと、洋服やら化粧品やら妻の荷物が全て無くなっていた。  ダイニングに戻った私は、ネクタイを緩めながらきちんとラップのかけてあった鰈の煮付けの皿を電子レンジで温めた。ご飯と味噌汁をよそい、缶ビールを冷蔵庫から取り出す。  いつもと違ったのは、テレビを点けずに離婚届を見ながら夕食を食べたことと、その傍らにもう妻が居なかったことだろう。  一枚のメモが、離婚届にクリップで留めてあった。 『――これまでお世話になりました。新しい住所が決まったら連絡します。 紀子』  達筆ではないが妻らしく丁寧な字で書かれたそのメモを、鰈に箸を付けながら何度も眺めた。  離婚届には、もう妻の名前と印鑑が押してあった。どうせなら私の分も記入しておいてくれれば良いのに、などど考える。 「離婚届の印鑑、夫婦で同じものでも良いのか?」  独り言混じりの他愛ない私の問いに、答える人間はもう居なかった。  もちろん私は妻に愛情があったし、離婚などこれまで考えたこともなかった。しかし妻の生真面目な性分上、もうどうにもならないことも分かっていた。いくら鈍感な私でも、長年連れ添った相手の気性ぐらいは理解しているつもりだ。  私が妻にしてあげられる限界、いや、逆だ。妻が私に携わることが出来る限界が、ここまでだったということだろう。  缶ビールを飲み干す。  私にそれ以上、何もすべきことはなかった。
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