月の海は兎の顔

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「貴方は誰」 ここに来てようやく私は、宇宙空間に浮かぶ紳士の素性を気にした。 夢を見ているのか、幻を見ているのか。 どちらにしろまともな答えは無いと頭の片隅に思いつつ。 「残留思念と呼ぶべきものなのでしょう。私に名は有りません。コリンズと言う名の男の残した意識が私の中核です。彼は選ばれた三人の中でただ一人、静かの海に降り立つ事が出来なかった男です。きっとその心残りが私をここに生み出したのでしょう。そして多くの人の月に行ってみたいと言う想いが、私を存在させ続けているのかも知れません」 思ったよりも饒舌に彼は答えた。 途方もなく馬鹿げた解で、夢のある答えで私にとって心と言うものの力を想起させる答えだった。死の間際でも、心の不自由さに囚われていた自分が可笑しい。 「でもコリンズは、初めて月に人を送った人類だわ」 「そうですね。彼も偉大です」 優しく微笑み、紳士は言葉を繋げる。 「そして人類にとって、偉大な一歩があそこには刻まれています」 知っている。二人の宇宙飛行士が残した足跡が、静かの海には刻まれている。 沢山の人の支えと夢と協力があって、人類が成し得た小さくとも偉大な一歩が月には有るのだ。 「私は皆の夢を、協力を二度も無駄にしたと思っていた。オリジナルの代わりにも成れず宇宙飛行士としてミッションに失敗した。けれどどちらも本当に無駄だとは言えないのね」 目端をゆっくりと漂って行くものがある。 漂って行くものは絶命した私だ。 デブリに頭部を穿たれ、その衝撃に因る慣性でゆったりと月に向かっている私。
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