月の海は兎の顔

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明るく振る舞いながら、心配や応援の言葉を口にする人達には告げられない事があったから独り虚しさも噛み締めた。 私はクローンだよ。世間一般に隠語として伝わっているリターナブルだよ。再生された人間と知った時に、貴方達は何を考えるのと。 個人情報の保護の観点から、この事は誰にも知られない様に厳重に護られている。 私は一度死んで甦った人間ですと、自分から告げる人も居ないだろう。 二十一世紀の終わりにも流行った終末思想と、一向に改善されない貧富の差から犯罪者が増え殺人が横行し、その傾向は今も続いている。 情報が氾濫する中で自分が何者にもなり得ないと無気力に陥る人もいれば、逆に情報を得て万能感と誇大妄想を抱いて挫折した挙げ句、怒りの矛先を他者に簡単に向けてしまう者。 一見大人しく見える人柄の下に、秘めた異常性を暴露する者は後を絶たない。 狙われるのは、のほほんとした平和に浸かった穏やかで他者に向ける悪意を持たない人。 幸か不幸か医療技術の進歩も有ったから、死に至った人を甦らせる手立ても人は手にしていて、私はその恩恵に預かった。 本来なら存在しない命、それが私だ。 私のオリジナルは僅か五歳で殺された。 幼児嗜好の変質者にターゲットにされたのだ。 近所に住む引きこもりがちのニートだったと言う。 母子家庭で有りながら、唯一の家族に暴力を振るい恐怖で支配したその屑男は、経済面で母親に寄生しながら更に自分の欲求を満たす玩具としてオリジナルを誘拐し監禁の果てに命をも奪ったのだ。 凄惨な事件に、憔悴した家族に差し伸べられた救済の手がクローン技術だ。 愛する我が子を取り戻したいと、私の父母たる者はその手段にすがった。
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