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「桃香は……来ないよ」  桃香は、来ない。彼女の首から上は、私の家の浴槽に浸かっている。  桃香の「今から行く」という連絡を受けてから、浴槽にお湯を張り始めた私は、一体どこまでを想定していたのだろう。  痙攣が収まった桃香の身体は重たかった。蒼白した顔面を浴槽に落とすと、頭を押さえつけるまでもなく、幾つかの泡が生まれた後に、水底はすぐに沈黙した。海藻のようにゆっくりたゆたう長い髪と、水を吸って白く膨らんだ顔面は、深い海を彷徨う船幽霊に、きっとよく似ている。  シャンデリアの光が、左薬指のダイヤを照らす。鶏ガラのような指先から外した婚約指輪は真夏の太陽を思わせる輝きを放っていた。  小さくなんかない。彼の愛の証は、桃香の指より私の指によく似合った。 『あずみに会えて、よかった』  波が寄せて、返っていく。潮が引いて何もなくなった砂浜には、一体何が残るのだろう。  スーツケースには予定通り、出張に備えた二泊分の荷物が入っていた。明日からの行程も頭の中に入っている。けれど一ヶ月前に抑えた北海道行きの夜便に、私は乗らない。  きっと私は流れるままに、彼と始まり、終わった海に行くのだろう。あの海に住む船幽霊は、今度こそ私を招いてくれるだろうか。 『あずみに会えて、よかった』  よかった。浴槽に浮いているのが、桃香でよかった。  私の愛が、彼を沈めてしまわなくて。  本当に、よかった。 「本日はおめでとうございます」  知らない誰かを祝う言葉が、私の前を通り過ぎていく。  それはまるで波音のように。
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