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「それじゃ」
「ごめんね」と彼を抱きしめる代わりに、車のドアを内側から押すと、ひんやりとした夜の空気が首元に張り付いた。彼は驚いた顔で咄嗟に私の腕を掴んだ。
「なに?」
「だって、降りてどうするの」
「これから考える。心配しないで、大人だから」
私に拒絶されることに慣れていない彼は、手の力をすぐに弱めた。彼の手の平は汗ばんでいて、解放された二の腕は、その面積分だけ殊更冷たい空気を纏う。
「まさか、『はい別れました、これから一緒に帰りましょう』なんて……ここから東京まで仲良くドライブしようって言う気じゃないよね?」
何も考えてなかったのだ。だから、平日の仕事終わりの、ローカル線の終電などとっくに終わった時間に、こんな場所へと私を連れ出すことができる。
「うちにある荷物、送るから。そっちにある荷物は勝手に、捨てて」
水色の軽自動車の扉が大きな音を立てて閉まり、私と彼との空間を断絶する。本気で私を心配して追いかけようなどと、彼はつゆほどにも思っちゃいない。
せいぜい心臓の動きが早くなって、手で顔を覆って「ヤベー」と声に出すくらいだ。私が暴漢に襲われでもしたら夢見が悪い、と。けれど私の姿が視界から消えたその後は「でもま、仕方ないか」と、彼は車のアクセルを踏む。車内に響くBGMをアップテンポのJ-POPへと切り替えて。
そんな風景が目に浮かぶ。付き合い始めた二十一の夏から六年と、少し。彼は私の一部だった。
「終わり」になんてどうしてできるだろう。
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