05.

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05.

「あずみといると、息が詰まる」  都心からレンタカーで二時間弱。車を止めた路肩には街灯もなく、黒く大きな木々が風にざわめく姿は、枝葉の影から幽霊が覗いていてもおかしくない雰囲気をはらんでいた。数センチ開けた車の窓からは微かな波音が流れ込む。それにかぶさるように、暗い車内には数年前に流行った恋の歌がループしていた。    彼がハンドルを握りしめた手に額をついて、かれこれ三十分以上。 「別れよう」という言葉は、五秒もあれば事足りるのに、ようやく絞り出された言葉は既に決まっている結論に、まだたどり着かない。 「あずみに不満があるわけじゃないんだ。あずみは俺を理解してくれるし、変なワガママも言わないし……。 いつでも先回りしてくれる。それが、なんていうか。たまに。重たい……っていうか」  早口で始まった口上は、その中に含まれる矛盾に彼自身も気づかないまま、ゼンマイが止まるように途切れていった。 「それは、私と別れたいってこと?」  彼は否定も肯定もせずに俯(うつむ)いたままだった。口を開けばきっと「わからない」と言うのだろう。  優しいのだ。この期に及んで、私を傷つけまいと思っている。貝殻を硬く閉じた彼が守ろうとしているのは、彼自身の心でしかないのだけど。  潮の香りが鼻からまぶたの淵に抜けていく。車から数メートル離れた古い石段を降りればそこは、静かな波が打ち寄せる海岸線が続いている。大学三年の夏に、ゼミの仲間たちと訪れたこの海は、私と彼が付き合うきっかけとなった場所だ。  Tシャツも脱がずに波打ち際ではしゃいで、予想外の大きな波に転んで、笑って。手を差し伸べてくれた彼の顔がいつの間にか目の前にあって、無意識に顎を上げた。自然と閉じていた目を開けた後にぎこちなく顔を見合わせてから、「付き合う?」と聞いたのは私からだ。太陽の真下で交わしたキスのしょっぱさを、私はまだありありと思い出せる。 「……別れようか」  ひとつの恋が終わる歌が、サビの盛り上がりで同じ歌詞を繰り返す。頭を上げた彼が、ようやく私の顔を見る。 「あずみは、俺と別れたいの?」 「嫌とか、嫌じゃないとかじゃなくて。……多分もう、無理なんだと思うよ」  何事も決められない彼が黄色信号を点滅させる時には、彼の中で答えは決まっている。迷う素振りを見せる彼に結論を差し出すのは、いつだって私の役目だ。
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