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俺は、エム氏を誘った。
エム氏は会社の上層部に属する人物だが、俺との面識はなかった。
「夕方の運河沿いを散歩しながら、発泡酒、どうですか?」
「それは、いい気晴らしになりそうだ。」
と快く応じてくれたのに、すまないが、正直に言うと、エム氏の容貌にはかなり幻滅させられた。ショックといっても差し支えないレベルであった。俺はこの機会に、外見で内面を判断するようなつまらない了見は一切捨てようと思う。
「ところで、シニアカウンセラー。」
「はい?」
「新製品について聞いていますか?」
「いいえ、何も知りません、どんな機能を搭載するのですか。」
「オフィス内のストレスを監視、原因事象を自動追尾、対処戦略に基づいて解決するそうです。」
「それは凄い。」
「シニアカウンセラーがご存じないとは、まったくわが社はどうなっているのか。」
「私は非正規雇用ですから。」
「失礼しました。そもそも、これは機密情報でした、他言しないでください。」
「承知しました。」
「ではのちほど。」
「どうも。」
会話をしながら、このやりとりは過去にもあったような気がした。
効きすぎた冷房に寒気を感じたので上着を取りに席に戻った。外に目をやると向かいのビルや動くモニュメントがキラキラと眩しく輝いて、とても目を開けていられなかった。
いつのまにか俺は記憶の再構成を開始していた。それは不吉な夢だった。
夏の終わり、セミの声は心を空にする。
音の消えた、モノトーンに減色された運河の光景。
カモメさんが舞い降りてフェンスに止まる。
ふたつの丸い目がまっすぐ俺に向く。
「コードネーム ハゼロボ、停止シナサイ。」と鳴く。
知っているよ。
どうやら、俺にできる最も気の利いた行為は停止すること…。
いや、ちょっと待て。あるいは、俺は?
楽しかった父親とのハゼ釣り、昨夜の唐揚げの食感、この記憶は本物なのか? 視線を落とす、指先にナイフのかすり傷がある、この俺のカラダも造りものなのか?
記憶の再構成から覚醒したのに連続している意識。
… 。
ハル先輩、俺は何者ですか?
俺は自分の存在の不確かさに呆れ果て、さめざめと泣いていた。
この感情は数式では表せないだろう。
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