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その時、鞄の中のスマートフォンが震えた。アドレス帳に登録された発信者名「西川(にしかわ)先輩」を見て、あたしはほんの少し、電話に出ることを戸惑った。
けれど、この人だったら、あたしの気持ちを、ほんの少しは汲み取ってくれるのかもしれない。そう思った時には、既に応答のボタンをフリックしていた。
〈おう、笹川(ささがわ)。いま大丈夫?〉
「あ、はい。……仕事で何かありましたか」
〈ああ、ごめんな。体調不良のところ〉
あたしは、すぐに違和感に気づいた。今の時間は、バリバリの就業時間中だ。にも関わらず、西川さんの後ろからは、オフィスの中の喧騒が全く聞こえてこない。そして、そもそも用事があるなら、会社の電話からかけてくるはずだ。そう思いながらも、あたしは何も言わないでおいた。
〈あのさ。こないだ決裁に回ってた施設修繕の稟議書のコピー、どこかにあるか〉
「あれ、わたし、ファイルに綴じてませんでしたっけ」
…なんて言ったものの、間違いなく綴じている。上席がまったくと言っていいほど席にいなくて、ようやく部内決裁が終了した稟議だ。本社主管箇所に送付する時に、必ず稟議書のコピーをとって、ファイルに綴じることを習慣にしているし、それも今回は決裁に時間がかかり過ぎたから、より強く印象に残っている。
〈あ、本当? ちょっと待てよ〉
ペラペラと紙をめくる音が聞こえたあと、電話口の奥から〈あ……あー〉という、西川さんの感嘆句が漏れ聞こえてきた。
〈悪い、あったわ〉
「あはは、よかったです」
この人は、演技が下手だなあ。
あたしは素直にそう思っていた。
西川さんがそう思っているように、あたしだって、あなたの考えていることは、既にお見通しなのに。
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