豪雨の中で

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「びしょ濡れだねぇ。外凄い雨だものねぇ」  変に間延びした声が、耳に届く。私の身長より少しばかり高いその初老の男性は、ひょこひょこと兎のように本の山を飛び越え、奥まで向かうと、白いタオルを手に戻ってきた。 「タオル、いる?」 「……ありがとう、ございます」  素直にタオルを受け取り、濡れた髪や肌を拭く。その間、男性は機嫌よく鼻歌を歌いながら本の山を片付けていく。何とか人一人は難なく通れるような道ができ、更に何を思ったのか本で出来たアーチの道すらできていた。…この人は、遊んでいるのだろうか。 「お客さん、滅多に来ないから」 「そうなんですか」  そりゃあ、こんな豪雨に店を出していたら、来る人も来ないだろう。  することも無く、てくてくと目の前の男性の後ろをついて歩く。 「君、学生? この辺に住んでるの? 名前は? 好きな本は?」  ひょい、と足元にある本の束を越える。鞄が引っかかって、頭を抱える様な音がする。 「学生、この辺ではないですが、この町には住んでいます。で、名前は……えーっと、山田太郎です」  勿論偽名だ。流石にこんなよくわからない人に名前は教えたくない。 「好きな本は……『兎の目』です」 「おっ、灰谷健次郎さんのかぁ。いいよねぇ、あの話。特に処理所の子が、ハム工場の事件を解決するとこね。好きなコトを極めれば、こんな役に立つんだって思ったよ」 「は、はぁ……」  私も、この人が言った場面は好きだ。何度も何度も読み返し、自分も彼のように何かの役に立てるのかと、日々夢想したものである。しかし、現実は非情だ。 「あっ、僕はねぇ、塩野目幸次郎。名乗ってなかったでしょ?」 「いえ、別に……」 「この歳になるとねぇ、何喋ったか忘れるんだよねぇ。ついさっき話してた事も、すーぐ忘れちゃう。困ったものだよ」  塩野目さんが、盛大にため息をつく。だが、その健忘を彼は楽しんでる風だった。  ……しかし、どこまで歩けばよいのだろうか。
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