「わたし」の物語~小日向有紀の場合

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「わたし」の物語~小日向有紀の場合

 本屋には、たくさんの物語が集う。  小日向有紀は、ガラスの扉をくぐり抜けた。  エアコンの効いた店内に、一瞬、外気が流れこむ。  その熱で、紙の香りが空気中に溶け出し、場を満たした。 「いらっしゃいませ」  商店街から外れた人通りの少ない路地にある、小さな書店。客は、小日向をふくめて三人しかいない。  眼鏡をかけた高齢の女性と、学生服すがたの細身な少年。少年の制服は、このあたりでは有名な進学校である、北高のものだ。 (今日は、常連さんばかりね)  彼らを軽く見わたし、肩まで伸びた髪をいじる。  小日向は、スーツについたシワを気にしつつ、店内へと進んだ。  まっすぐ歩き、新刊棚の前に立つ。  届きたての物語が、そこには並んでいる。  小日向は、ひととおり眺めたのち、一冊の本を抜き出した。  最近よくタイトルを耳にするベストセラーで、キャリアウーマンが主人公の、恋愛ミステリーだ。装丁のイラストも、美しいと話題になった。  表紙に描かれているのは男性だ。語り手は主人公の女性なのだが、謎を解く探偵役が、喫茶店でマスターをしている男性なのだ。  小日向は、その男性が切なく笑う表紙を、しばらく見つめていた。  彼を見つめながら。  やはり自分は、物語が好きだ。と、あらためて思う。 (わたしは、空想が好きだ。想像することが好きだ)  小日向有紀は独身で、恋人もいない。会社に勤めて三年、ようやくそれなりに大きな仕事を任せられるようになってきた。  友だちが多いとはいえないが、人付き合いが苦手というわけでもなく、むしろ人懐こいほうなはず。  外出は最小限に済ませるタイプでありながら、書店に来ると、ついつい長居してしまうことも、ままある。  家に帰ると、コンビニで買った缶ビールを控えめにたしなみつつ、読書をする。テレビはあまり見ない。  本を読むと、感情移入して主人公になりきってしまったりもする。 (んー。今日はもっと、ちがう想像をしてみたい気分かな。たとえば、日常や人間関係が一変するような──)  小日向は、さきほどの本をいったん棚にもどし、べつの本を手に取る。  その頭のなかは、明日以降のことでいっぱいだ。  原因は、そう──小日向は昨日、職場の同僚から告白されたばかりだった……。  と、そんな思考をさえぎるようにして、遠慮がちな、か細いくしゃみが聞こえてきた。     
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