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その漁村の沖に、漁船が一艘出ていた。
漁船とはいっても、小舟に近いその船で、男は網を引き揚げ、漁をしていた。網にはアジやエビなどの小魚がかかっていて、それを一つ一つ取り出してはクーラーボックスへと入れていった。
たまに、かかっている魚が船底で跳ねて逃してしまうこともあり、男の手つきはおぼつかない。それもそのはず、男はこの春からこの漁村にやってきて漁業を始めたばかりの新米漁師だったのだ。
男の家族は妻と小学校に上がったばかりの息子が一人いるだけであった。元々都市部に住んでいて、男はサラリーマンをしていたのだが、諸事情あって、家族でこの漁村へ引っ越してきたのだ。
その日の漁を終え、男は小さな港に船を戻してきた。獲物が入ったクーラーボックスを手に陸に上がったが、港には人一人もいない。
男はおかしいと思ったが、今日は何かあった日だったかと首をかしげながら歩いていると、向かいから日ごろ世話になっている漁師の先輩である中年の男が道具箱を手に歩いてきた。
「岡田さん」
男が声を掛けると、岡田と呼ばれた中年の男は髭を生やした顔を上げた。そして、帽子のつば越しに男の顔を見ると、おう、と声を上げた。
「はっちゃんじゃねぇかい。どうした……あぁ!」
岡田は男の顔を見るなり入道のような顔を一瞬綻ばせたが、彼の手にしているクーラーボックスを見て、驚きの声を上げた。
そうして、帽子の下で汗ばんで真っ赤になっていた顔を一気に真っ青にすると、男に大変慌てた様子でこう声を上げた。
「おまえさん、もしかして、今日海に出たんじゃあるめぇな?」
「え? はい、先ほど出ましたが」
「なんてことしたんじゃ! 誰にも聞いちょらんかったが? 今日だけは漁に出ちゃあかん、と」
「え?」
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