記念日

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記念日

アルバートホテル 7階 金曜日 20:00 「…すごい荷物」 その日、弘はネイビーのキャリーケースを 引いて部屋にやってきた。 キャリーケースと同系色のシャツに、 細身のチノのパンツ。 仄かに香る甘酸っぱいシトラスの香りは、 「夜の男」の生々しさを幾分爽やかに引き立てた。 長い薄茶色の前髪を手の甲でゆっくりと持ち上げると、 屈託のない笑顔でベッドの縁に座る真の前に立つ。 「ジャン!」 突然大きな声をあげられた真は、 "猫目"を少し、丸くさせた。 「5回目ご利用の感謝を込めまして… 本日は2時間コースとさせて頂きます!」 「弘…」 すっかり自分の世界に入り込んだ弘は 鼻歌を歌いながらキャリーケースを 部屋の入り口まで運び、設置された 荷物置き場に乗せた。 衝撃の大きさから、荷物の重さが伺える。 「弘…」 「ん?」 「ごめん…今日はこの後仕事が入ってて… 会社に戻らなきゃいけないんだ」 「がーん…」 先ほどまで目の前に広がっていた 青く澄み渡る景色に、 グレーの分厚い雲が覆いかぶさる。 真のか細い声を聞くと、 弘はゆっくりと背を向け 頭が床にのめり込もうかと言う位に項垂れた。 大柄の背中が、小さく縮こまる。 「…ごめん」 真はベッドから立ち上がると弘の元へ歩み寄り、 背中に手を添えた。 シャツ一枚越しに触れる弘の背中は 温もりがあった。 程よく鍛えられ、弾力がある。 真はゆっくりとその手を離し、 弘の背中に声を当てるように顔を近づけ、呟いた。 「…来週…もう一度。予約を入れるから」 「来週!?2週連続!??やたー!」 グレーの分厚い雲は一気に吹き飛んで、 また晴れやかな景色が舞い戻ってくる。 縮こまった身体は元の大きさを取り戻し、 弘は子どものように高らかに笑いながら 真を抱きしめた。 弘の力強い抱擁に 身体を持っていかれそうになりながら、 何とか両足で踏ん張り、体勢を持ち直した。 懐に広がる、シトラスの香り。 今ここにいる時間が、幻想ではないことを 教えてくれる。 真は弘の胸に頭をもたげると、 ゆっくりと息を吸い込んだ。
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