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嗅ぎなれたはずの紙や木の匂いが、妙に懐かしい。もう随分とこの世界からは離れてしまった。それでも、今だって本屋には来るというのに。昔、よく覗いたコーナーに足を踏み入れる。はじめに見たときは新刊の棚にあったその本も、気付けば本屋の隅っこで眠るように並べられるようになった。 「あ…」 そこで足を止める。 目の前で、今日の目的であるその本を手にする中年男性が見えたからだった。隣には奥さんらしき人が寄り添うように立っている。 「その本がどうかしたの?」 「いや、懐かしいなと思ってね」 「懐かしい?」 懐かしい、とはどういうことだろう。小首を傾げながら、あくまでほかの本を見る客を演じつつ、二人の会話を盗み聞く。 「この作家さんね、昔…ほら、ネット小説が流行っていた頃に、よく読んでいたんだよ」 「そんなに有名になった人なの?」 女性はまるで聞いたことがない、とでも言いたげな声色でそう尋ねていた。彼は、いや、と口を開く。 「僕も一時期、そのサイトで書いていたんだ。それでメッセージのやり取りもしていたんだが、彼女、面白くてね」 「なに、気になる女性だったの?」 神経質そうに眉を寄せる女性は、それだけで嫉妬深さを滲ませていた。 「いや、会ったこともないしね。まぁ、ある意味気にはなっていたかな」 彼がそこまで言うと、彼女はあからさまに面白くなさそうな顔をした。 「いくつの人なのかも分からないが、落ち着いた文章を書く人でね。でも、青春時代の若者みたいな情熱も持っていたんだ。メッセージのやり取りというよりも、小説やエッセイで彼女の人となりを見ているだけで、“あぁ、この人は確かに生きているな”って感じたものだよ。僕みたいに、日々を何となく過ごしている人間とは違うんだなってね」 生きている。 そんな当たり前の言葉を、その意味を模索する。生気に満ちた人間というのとはどこか違う響きに思えるのは、やはり私というフィルターを通しているからだろうか。
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