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この本を手に取ろうと思ったとき、読んでからすべてを決めようと思っていた。またあの恐怖の中に引き戻される可能性だって、ゼロじゃないと思っていた。けれど、杞憂のようだ。
もうずっと、本当はまた筆を執りたかった。私には、ずっとそれしかなかったのだから。
「お待たせ致しました」
空気を読んだように絶妙のタイミングで、マスターが料理を運んできてくれた。
出されたスープに、匙をひと掬い入れる。そして口に運んだ。ほっと心を落ち着けてくれるそれが、濃厚に舌の上を転がっていった。かぼちゃのスープみたいに甘いものを食事時に好まないことまで、彼は察してくれているのかもしれない。不思議なお店だ。
「これなら、食べられそうだわ。ありがとう」
「量も食べられないと思ったので、炭水化物はそのスープということで。それより…何かいいことでもありましたか?」
彼はこちらの顔を覗き込んで、そんなことを口にした。
「え?」
「雨が上がったような顔をしていますよ」
「分かるかしら。今日が勝負だったの。やっと解放されたみたい。過去の呪縛から」
「それは、この店冥利に尽きますね…と言いたいところですが、ご自身で切り抜けたのですから、真澄さんの力ですね」
「けれど、ここで読んで正解だったわ。落ち着いて、反芻することもできたから」
「だったら光栄です。お食事、ゆっくり摂って下さいね。急だと体がびっくりしちゃいますから」
優しさの込められたその言葉も、しっかり味わって。この店の空気も、本の世界も、過去の自分も、今の自分も。すべてを、食事とともに味わってしまおう。
記憶がやっと定着する今なら、長編を書くこともできるかもしれない。
唯一のこの本が、またいつか新しい本と並んでくれたらいい。書店の片隅で、今日見掛けた男性のように思い出すものであったり、何かのきっかけになったり。このお店と同様に、人の心を晴れに変えられるものを、そのやり方を、私は知っているのだから。
今日からまた、一つずつ。一文ずつ。コツコツの苦手な私が唯一できる、コツコツをまた。
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