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「ありがとうございました」 その声が聞こえて、現実に意識を戻した。どうやら、カウンターのお客さんは帰ったようだった。 私の視線に気付いてなのか、マスターがこちらに歩いてくるのが見えた。 「あの方、もう帰られたんですね」 と言っても、私が来るよりも前からいたのだから、“もう”なのかは分からないのだけれど。 「ええ。元々、もうあのお客さんには、ここは必要がないんです。今日は報告までに来たようなものでしたから」 「あら。あの女性は、雨、止んだのね」 「みたいです。雨宿りに来られてからも、なかなか晴れなかったみたいですけど、やっと晴れたようです」 まるで隠語で話しているようなこの言葉たち。それは、店名に由来する。 “take shelter”、雨宿りという意味合いを持つ言葉から生まれたこのお店は、その名の通り、雨宿りでしかお客は入ってこないのだという。それは、心の雨宿り。 以前までだって、私は幾度もここを通っていたし、お店は私が知るよりもずっと前からあるらしかった。けれど、このお店に気付いたのは、あのどうしようもないほど打ちのめされて希望もなにも見えなくなったときだった。 メニューを置かないで、客の注文には漏れ一つなく応えてくれる。不思議に首を傾げれば、 「ここは、そういうお店なんです」 そう穏やかに諭される。 見た感じは私よりも4~5歳ほど若くも見えるけれど、彼一人の経営のこの店を考えると辻褄が合わないような気もする。何よりも、経験をたしかに積んでいるだろう洗練されたすべての仕草が、一流のレストランのそれにも見えるのに、物腰は穏やかで親しみやすく、いつも付かず離れずくらいの馴れ馴れし過ぎない適度な距離感で話を聞いてくれたり、一言二言なにか言葉をくれる。 一歩出れば街角では誰もが急ぎ足で、配られたビラが足元を転がっていたりなんかもして。そんな世界とは確実に遮断されたこの店内は、すべてから解放してくれるような何かがいつだって漂っていた。
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