あの日

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あの日のことは鮮明に思い出せる。 夏休みに入る少し前の日。天気予報で猛暑日と聞いた俺は弁当が腐らないように保冷剤をいつもより多めに入れていた。そのせいか、白米が硬くなった不味い弁当を無理やり胃袋に収め、食べ終えた俺はいつも通り図書館へ向かった。流石に猛暑日なだけあって歩くだけでも汗がポツポツとでる。そのため、クーラーがついている図書館へと駆け足で向かうのは必然だった。 図書館に着いた俺はすぐにドアを開け、前から吹く冷気にありがたみを感じながら入館した。予想通りいつもより人が多い。それでも尚空席の方が多いのは図書館の悲しい運命。 そんな事に毎回胸を痛めていたら埒が明かないので、本棚から適当な本をとって司書さんへと渡す。3ヶ月も通っているので仲良くなってしまった司書さんとたわいも無い話をして、本をもらうといつも座っている窓側に腰を下ろした。 本のタイトルは《山月記》、中島敦によって書かれた有名な作品。なかなか読み込まれているようで、所々破れていたり黄ばんでいるのが目立つ。それを気にする人は幾らかいるかもしれないが俺は気にしない人間だった。 《山月記》。物語の最初に難解な漢字が多く出てきて訳が分からなかった。仕方なく辞書を借り、漢字の意味を調べながら読む。 物語の主人公、李徴は若くして倍率約一万倍の試験に合格する天才でなのだが、この就職先は自分には役不足だ、と辞めて詩作に没頭した。しかし、それも上手くいかず、妻子の生活の為に就職先に戻るのだが、溜まり続けた不満が爆発。李徴は発狂し、森の中へと消えてしまった。数年後、袁?という役人が人食い虎の出る森を抜けようとしたところ、案の定、人食い虎が袁?の前に現れたのだが、その虎はすぐに叢(草むら)の中へ戻り-- 「危ないところだった」 と、その声は俺の耳に入ってきた。 風鈴のような透き通った声。 視線を単行本から外し、正面を見ると黒髪の美少女と目が合った。この少女はいつの間にか自分の前の席に座り、俺のことを見つめていたのだ。彼女がにこりと微笑むと見つめ合っている事にやっと気づいた俺は赤くなりながら目をそらした。
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