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「喉が渇いたんで缶ビールを飲んだんだ」
「そう…」
「でも意識はしっかりしてるよ」
そう言って俺は彼女の髪に軽くキスをした。
「どうしたの、昨日も今日も。何かあった?」
そう聞いた。でも何も言わず涼子は向きを変え、テーブルの方
へ歩いていった。
「涼子…」と、俺は言った。
「ごめんね」と、彼女が言った。またも『ごめんね』だった。
俺は息を吸い込み、こっちを向かない女になかば強い口調で言
った。
「週末のデートの時はいつも遅れて来たよね。その時も『ごめ
んね』だけだった。気にならなかった訳じゃないけど理由は聞
かなかった。でも今は聞きたい。昨日は何処へ行ってたのか、
今日はどうして来なかったのか、理由を知りたいんだ」
「ごめんなさい、本当に」
「どうしたんだ、一体ッ」
「…」
「嫌いになったのか? 俺が」
「そうじゃないの、ただ…」
「こっちを向いてくれよ。ちゃんと顔が見たいんだ」
そう言うと彼女は振り向いて、一瞬だけ俺を見た。顔立ちは相
変わらず美形で、だけどとても悲しい、すごく哀しそうな瞳つ
きをしてた。
「そんなつらそうな顔するなよ… もういい。やめよう、もう。
…帰るよ」
そう言って俺は玄関に向かった。
「今日は気分が悪かったの。だから…」
「いいって」
言葉の上での慰めは俺の心にまで届かない。体を素通りしてい
くだけだ。冷たいノブをひねって俺はそこから居なくなった。
「ダメか、もう」
涼子の笑顔を俺はもう見ることが出来なくなったと思った。
エレベーターを待つ間、彼女が部屋から飛び出してきて俺に抱
きつかないかと期待をしたが、それは現実になってはくれなか
った。扉が開き俺と共に一匹の小さな羽虫が乗り込んできた。
落下していく箱の中でその羽虫が『ごめんね』という字をかい
て、狭い空間を縦横無尽に飛びまわっていた。
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