夏が嫌いな理由

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「雪兄、早く、早く、夕日が沈んじゃうよ。」 「朔……待って。ゆっくり歩けよ。」 結局、姉ちゃんに言われた通り、夕飯後の農道を朔弥と歩いていた。あちこちで、カエルとスズムシの鳴き声がする。夕日は沈みかけており、紫色の空が静かに今日の終わりを告げていた。とんぼもあちこち飛んでいる。 東京に居たら、絶望と言う1日の終わりも、ここではこんなに穏やかに見送れる。いつか、また明日と笑って1日を終えてみたい。 「うわーーー、すげーーー。」 小高い丘に登り、集落が一望できた。朔弥が手を広げ空を仰いだ。青々とした田んぼがそこらじゅうを埋め尽くしている。夏の夜の気配がした。 「あぶねーよ。もうちょっと後ろ下りな。」 前のめりになった朔弥をたしなめる。 「雪兄が歩いてるの久しぶりに見た。雪兄も歩けるんだね。しっかりしなきゃだよ。」 「失礼だな。俺だって……」 社会人だった時は足が棒になるまで毎日歩き続けた。あの頃を思い出して言葉に詰まる。息がうまくできなくて、背中が痛んだ。 ぬるい風から夜の冷たい空気へ、静かに変わっていくのを汗ばんだ背中で感じていた。 「あのね、今日、学校に新しい先生が来たんだ。俺の担任の先生さ、病気で辞めちゃったから。」 それは姉ちゃんから聞いた。どこの世界にも精神を病む奴はいるらしく、辞めてしまった朔弥の元担任へ心の中でエールを送った。きっとそこではないだけで、自分の居場所は絶対にあると思うから諦めないでほしい。 「新しい先生はどんな人なんだ?」 「うーんとね、かっこいいんだ。テレビに出てくるヒーローみたい。それで、先生もここの学校の卒業生だって。若い先生だから、女の子もキャーキャーうるさい。」 「へぇ……で、先生の名前は?」 「及川夏緒先生。年はにじゅう……へへっ忘れた。」 おいかわ、なつお……記憶の中から、名前の響きが何かを呼び覚ました。確か、同級生に同姓同名の奴がいた筈だ。1学年1クラスの小さな学校だ。同級生はほぼ家まで知っている。及川は、5年生の5月……半袖を着始めた頃に転校して来た。それから小学校卒業直後にまた引っ越してそれっきりだ。 顔は……思い出せない。だが、柔らかくて茶色の髪の横顏だけは覚えていた。 思いもよらない同級生の話に、ほんの少し、心が動いたのだった。
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