三章 寒空のした

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 友人として和やかに話せる関係なら問題ないが、会えば、体に触れたくなる。  体の奥に熱を感じて、ビーシュはぶんぶんと首を振る。 「あぁ、ぼくって本当にあさましい。姐さんにあきれられるのも無理ないよ」  ランプの火を消して、沸いたお湯を珈琲の粉を入れたドリップ・ポッドに注ぐ。 「また、怒られるんだろうか」  娼館の立ち並ぶ区画には近づかなくとも、男を買いあさっていれば知らず噂に上る。  今は現役を引退して、平民街にある花屋でひっそりと暮らしている元娼婦の〝姐さん〟には、顔を合わせるたびに叱られている。いいかげんに、落ち着きなさいと、それこそ母親のように。 「独り身の姐さんには、言われたくないや」  珈琲を飲めば、この胸のざわつきも少しは収まってくれるだろうか。  ひとりひっそりと生きてゆけるほど強くはなく、臆病で、無償の愛を信じきれない。中途半端なまま、大人になってしまった。 「これを飲んだら、出るかな」  明かりのない薄暗い部屋は、抱えきれない過去のすべてが残されている。  良かっただろうことも悪かったことも、捨てようにも捨てられないせいで、いつまで経っても自宅を引き払えないでいた。  ビーシュが持ち合わせている、唯一の未練なのかもしれない。     
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