三章 寒空のした

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 誰もいなくなってしまったが、帰る場所があるからこそ、かろうじて人のようなものでいられているのだろう。  ほう、っと白く煙る吐息をくゆらせ、ビーシュはポケットからサファイアを取り出した。  小さく、等級も中の上といったところだが、色味はとても気に入っていた。  手の中に収まる、サファイアの青。  ビーシュはカップを置いて、珈琲に濡れた唇でサファイアにそっと触れた。  人肌に温まったサファイアは、ビーシュを拒絶することなく、そっと、優しく受け入れてくれた。  持ち主の心が曇れば色も曇ると言われている石は、乏しい明かりのなかでも変わらずに美しくビーシュを見つめてくる。 「さよならって、ぼくはちゃんと言えるかな」  手のひらの上でサファイアを転がして、ビーシュはポケットに戻す。  飲みかけの珈琲を零し、カップを水で軽くすすいでビーシュは自宅を出た。しっかりと鍵をかけて、しばらくご無沙汰していた夜の街を目指し歩いて行く。 ◇◆◇◆  ビーシュが初めて夜の街を歩いたのは、五歳の頃だった。  もちろん、今のように快楽を求めてではなく、雪が降り始めても戻ってこない父を探すためだった。  母に逃げられてから、ろくに働かずにその日暮らしの生活を送っていた父は、まとまった金ができれば夜遊びにつぎ込んでいた。     
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