三章 寒空のした

36/55
前へ
/289ページ
次へ
 ビーシュがいつも利用しているバーは、通りより少し奥まった路地にある。  珈琲を買うため、ペリドットを換金して得た金は殆ど手をつけていない。遠慮することなく、交渉できるだろう。なんなら、サファイアもポケットに入っている。  歩調を緩め、ビーシュはポケットに手を突っ込んだまま、バーへと向かった。  馬鹿なことをしているのは、嫌になるほど知っている。快楽に溺れるのは、麻薬に溺れているようなものだ。  今はなんともなくとも、いつかきっと自滅する日がくるだろう。  娼婦業から足を洗った大姐さんは、さんざんビーシュのだらしなさを叱った後に「幸せになるんだよ」と、きまって呪いをかける。 「幸せって、なんだろう?」  レクト夫妻の姿が脳裏に浮かんでくるが、幸せと思うよりも先に、得体の知れない恐れが、ビーシュをたじろがせる。  呪いをかける大姐さんも、きっと、幸せというものがどんな形をしているのか知らないのだろう。  だから、願いではなく呪いになるのだ。  いつの間にか足は重く、行き交う人々から舌打ちが投げかけられていた。  ポケットの中で、サファイアをぎゅっと握りしめる。  粉々に砕くよう力を込めてみても、痛いだけでびくともしない。 「ぼくだって、幸せに、なりたくないわけじゃないんだよ」     
/289ページ

最初のコメントを投稿しよう!

690人が本棚に入れています
本棚に追加