一章 矢車菊の青い瞳は

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「はい、しっかりと学んできます。ビーシュ先生も、ぼくがいない五日間は、どうかおとなしくしていてくださいね」 「フィンくん、ぼくはもう四十二歳だよ」  自分で言っておきながら、どうしてか自信がなくなってくる。  ついさっき、派手に転んだせいかもしれない。 「行ってらっしゃい」  珈琲をすすりながら、忘れ物を回収して工房を出て行くフィンを見送る。  一人になって、訪れる者の少ない工房はビーシュだけの空間になる。ほっとするようで、どこかもの悲しい。  つねに見送る側であるからだろうか。置いてゆかれるような気分になる。 「ぼくも……仕事しようかな」  一年の殆どを、ビーシュは軍病院の一角にある工房で過ごしていた。  自宅と呼べる場所はあるにはあるが、軍病院からは遠く、築年数も古くて風通しが良い。  夏はまだしも、冬になれば凍えるほどだった。  工房のほうがよっぽど、快適に暮らせる環境だった。フィンには内緒にしているが、奥にはベッドもある。  ビーシュはカップを両手にもって、転ばないようそろりそろりと作業台へと戻った。使い込んだ椅子の背をきしませて、引き出しから手帳を取り出す。 「ああ、そうか。今日は遠征から軍人さんたちが戻ってくる日だったんだね」     
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