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泣き続けても、失ったものは元に戻らないのだと知った日。その時に、涸れて無くなったとばかり思っていた。
男を知っても、祖父が亡くなり本当の天涯孤独となっても、ビーシュは泣けなかった。
泣けば悲しくなるから、泣けなかった。
悲しくなくとも泣くのだと、初めて知った。
この感情を、人は愛おしいと呼ぶのかもしれない。
サファイアの義眼をポケットにしまって、ビーシュは少し苦い珈琲をいっきに煽る。
様々な豆が混ざり合った珈琲は複雑な味がしたが、けっして悪いものではなかった。
ビーシュは祖父が残してくれた道具があちこちに散らばる工房を眺める。
父がいて、母がいて。
すこしは家族らしかった日々を思い出そうとしてやめた。三十年以上経っているので、記憶は驚くほどに曖昧で、なんとなくしかでてこない。
幸せだったのか、辛かったのだろうか。それすらも、曖昧だ。
(でも、今はどうしてだろう。悲しくないんだ)
すべては過ぎ去った現実として、受け入れられている自分がいる。
今更ながら、生きてきた年数の長さを感じていた。
「ぼくは、ずっと立ち止まっていたんだね。春が来て夏が来て、秋が来て冬が来て。季節が巡るように、ぼくは上手く生きてこれなかったんだ」
窓から覗く、冬空の下。
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