一章 矢車菊の青い瞳は

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 とはいえ、いつものことだ。  少しばかり項垂れたのち、ビーシュは脱ぎっぱなしになっていた上着を床から拾い上げ、肩に掛けて「よっこらしょ」と立ち上がった。  古びて、枯れ木のようなビーシュの体でもきしきしと軋む床板を裸足で歩き、シャワー室に向かう。  安っぽく見える宿だが、珍しく、各部屋にシャワー室が取り付けられている。施設があるぶん値は張るが、古さのわりには綺麗に掃除もされていて、客の秘密もまあまあ守ってくれる。  貴族が使う高級宿屋ではないのでさすがに熱々の湯は出ないが、汗と精を流せるだけじゅうぶんだろう。  自宅に戻らず、直接職場に出勤しなければならないビーシュにとって、とても都合の良い宿屋だ。 「また、心配されちゃうかな」  扉の向こうから聞こえてくる、朝の支度に忙しそうな店主の声が、お説教のように思えてきた。  夜遊びもいい加減にしておけ、なんて、逢い引き宿の店主には似つかわしくない台詞を、ビーシュは何度も何度も頂戴していた。  身につかない説教のあとには、従業員部屋で、ささやかな朝食をビーシュに振る舞ってくれる。いつも、一人で目を覚ますビーシュを憐れんでくれているのかもしれない。     
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