一章 矢車菊の青い瞳は

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 幸いにも、今回の遠征でビーシュが赴かねばならない重傷人はいないようだった。予定が入っていなかったので、記憶になかったのだろう。  ページをめくり、往診の予定や外来の予定を確認する。  ぽつぽつと、見知った名前が記入されていた。  うっかり忘れないようにと頭に叩き込みながら、ビーシュは工具を手にとった。 「しばらくはまた、引きこもりかな」  まとまった金ができるまで、夜遊びはできない。まさか、愛弟子のフィンに迫るわけにもゆかない。  もうすこし若い頃、たまらずに弟子に手を出したこともあるが、手痛い目に遭って以来、自重していた。  魅力的な容姿も性格も地位もない。そんな自分が一晩の快楽を得るためには、金しか対価にできるものがない。  いざとなれば、義眼を売れば良いが、それは本当に困ったときだ。 「ぼくも、たいがいわがままなんだよね。見た目によらず頑固だから損をするんだって、言ったのは誰だったかな」  執着するものがが少ないからこそ、これと決めたものはどうしても手放せないでいる。  珈琲は、装具技師としての技術をたたき込んでくれた祖父が愛していた飲み物だ。  宝石、宝飾類は幼い頃に男を作って出て行った母が愛していたものだ。  快楽は、母を追って歓楽街に消えた父がおぼれていたものかもしれない。     
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