一章 矢車菊の青い瞳は

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 逢い引き宿の従業員と顔なじみになるなんて、普通は面倒でしかないだろう。ひと目を忍ぶ必要があるからこそ、利用する宿なのだから。  店主も、ビーシュ以外の利用客には、きちんと距離を保って接している。分別をきちんとわきまえていても、手を差し伸べたくなるほど憐れに思われているのかもしれないが。   好意でも、同情でも、ビーシュからすればどっちでもかまわなかった。店主のお節介のおかげで、虚しさを抱えたまま帰らなくてすんでいるのはたしかだ。誰かと一緒に食べる食事も、嬉しい。 「今日は、昼までに行けば大丈夫だったかなぁ」  亜麻色の髪を、後ろで一つにまとめていたひもを解く。  シャワー室前に置かれた簡素な棚に、使用後のタオルと一緒に、新品がひとつ置かれていた。  乱暴に丸めて置かれたタオルを、ビーシュはじいっと見つめる。  人だけが、忽然と部屋から消えていた。  いつものことだ。  ビーシュは乾いているほうのタオルを手に取って、ふかふかした感触を確かめるよう抱きしめると、石けんのさわやかな香りにほっと息が漏れた。  柔らかい感触は、求めてやまないぬくもりを、ビーシュに錯覚させた。  ビーシュは石けんの匂いに鼻を鳴らしながら、シャワー室ではなく部屋に戻り、ベッドの側、サイドテーブルの上に放り置かれた財布を持ち上げた。     
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