一章 矢車菊の青い瞳は

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 軽い食事をするだけでもいいだろう。『クレセント』の店主は、ビーシュのさみしい財布事情を察してくれて、いつもおまけしてくれるいい人だった。 「また、好意に甘えることになっちゃうな。なさけない」  遠征から軍人たちが戻ってきたせいか、街はいつもよりも少しばかり賑わっているように思える。  肉の焼ける匂いや、道の端々に立つ女の甘い化粧の香り。物騒さが目立たないだけで、夜の帝都は妖しさに満ちている。  顔だけ知っている客寄せの女がにこやかに挨拶をしてくるのに、ビーシュも笑って手を振り、路地を曲がり、赤い看板を掲げたバー『クレセント』に入った。  賑やかな周囲とは違って、静かなたたずまいのバーは、ビーシュが足繁く通う店の一つだ。 『クレセント』は主に、宝石商にあうために訪れるのだが、うまい酒とつまみを、安価で提供してくれる普通のバーだった。 「おや、お久しぶり」  父から店を継いだ若きマスターであるレイが、息せき切って入ってきたビーシュを、にこやかな笑みで出迎えてくれた。 「どうした、またぼられたのかい?」  カウンターの奥でグラスを磨いている前マスターのルイが、たっぷりと蓄えた髭の下であきれ顔を作った。 「い、いえ。まぁ……違わないですけど、違います。あの、コーエンさんはもう帰ってしまいましたか?」     
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