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序章 契約
「じゃあここを、日立」
「はい」
聞こえるかあやしいくらいの小さな声で返事をして、日立さんは席を立った。
黒板に向かっていく彼女の後ろ姿をつい目で追ってしまうのは、スカートの裾がほかの女子生徒よりもずんぶんと長いからだ。のろのろとした足取りで黒板の前までたどりつくと、彼女は踵を浮かせて、つまんだチョークを黒板の表面に立てた。
チョークはさらさらと問題の答えを導きだし、先生を頷かせる。日立七沙(ひたちなずな)さんは頭がいいらしい。定期考査のたびに廊下に張り出される成績の順位表では、いつも3番とか4番とかの枠に名前があって、とにかくいつも上位一桁は固い。
クラスに1人はいるタイプの物静かな優等生。休み時間も、移動でなければ俯いて教材を広げているけれど、もう行きたい大学が決まっているのだろうか。
「声ちっさ」
「おい」
イスをぐらぐらと傾かせて、音田凪都(おとだなぎと)は「じょーだんだよ」と薄く笑った。片手でいじっている黒いくせ毛はパーマではなく天然物だ。抜き打ちの頭髪検査で先生に呼び止められることもしばしばあるみたいだが、凪都は幼少期の頃から髪の毛にくせがある。生まれつきなんだろうが、それを先生たちに証明するには、本人の態度が軽薄すぎる。振り向きざまにちらりと耳元に小さなピアスが見えるのも、気持ちの浮つきが伺える。
ひらひらと右手を振って凪都は前に向き直った。それからふと、俺は窓際のほうに目をやった。
日立さんの横顔が見えた。
彼女はシャーペンの花飾りをせわしなく揺らしている。先生が口頭で説明している間もずっと。一生懸命にノートをとる姿勢はまさしく、優等生だ。
窓際から教壇へと視線を移した俺は、ぼーっと黒板を眺めた。黒板に残っている日立さんの字はやはりとてもきれいで、イメージにある優等生像を裏切らない。
(そういえば、あの子、左手で書いてたな)
俺は左手に握ったシャーペンを見下ろしながら、ふいにそんなことを思った。
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