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「日なたが狭くなってきたなあ……」
市街地を歩きながら、一刻は呟いた。
出発した地点と比べて、この街では、道路を覆う影の面積が明らかに広くなっている。
周りにある人々の影も、母が倒れた駅前広場にあった人々のそれより、全体的にいくらか長い。
わずかな日なたのなかで、一刻はなんの気なしに、自分の足元を見下ろした。
そこに、影はない。
母にも、同じく影はなかった。
ただし、母は自分の影をどこかに置いてきた人だったが、一刻は、生まれたときから影を持っていなかった。
それは当然のことだった。
一刻は、時が止まったあとの、この世界で生まれたのだから。
時を止める以前の世界に存在しない影が、この世界に存在するはずもない。
「うーん……。この、点字ブロック……? だっけ? このブロックのとこまでが日陰になってる歩道、歩いた覚えはある気がするけど……」
地面に目を落としたまま、一刻は首をかしげる。
自分が昔見た歩道は、本当にこの歩道だろうか? 同じところまで影がある似たような歩道は、ほかの場所にもあるかもしれない。
顔を上げて、辺りを見回す。
もっと、確実に見覚えのある景色はないだろうか。
それを探しつつ、気がつけば一刻は、またいつもの歌を口ずさんでいた。
その歌は、母がよく口ずさんでいたものだ。
よほどお気に入りの曲だったのだろう。母が歌うのはいつもそればかりだったから、一刻は、それ以外の歌を知らない。
――いや。実際には、その歌さえも、本当に知っているわけではない、らしい。
母が歌うその歌を、一刻は、いつの間にか、覚えるともなしに覚えていた。
けれど、一刻がそれを歌っていると、母は必ず嫌そうに眉をしかめた。
『やめてよ。私が歌ってるのを、あんまり覚えないで……』
『え? なんで?』
『そりゃ……私は、歌が下手だからだよ。私が歌ってるのを聞いて覚えても、それは、この曲の本当のメロディーじゃないからね』
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