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起き上がった一刻(かずとき)は、溜め息をついて、ズボンの膝に付いた砂を払った。
入念に叩き払って一歩下がると、膝のあった場所には、かすかな砂埃の膜が浮かんでいる。
それをよけて、突き飛ばした通行人に歩み寄った。
かなり強く突き飛ばしてしまったせいで、その人の体は、顔が地面に付くすれすれまで大きく傾いていた。
その人の正面側に回り、一刻は、両手で肩を掴んで押し上げる。
息を止めて力を込め、それを何度か繰り返す。
やはり、人は重い。
――こんなとき。
「あの人がいればなあ……」
そんな呟きが、ぽろっと口からこぼれ出た。
直後に、はっ、として口を押さえた。
自分のこぼしたその言葉がスイッチとなって、たちまちのうちに目頭へと、涙が吸い上げられる。
土の中にいる「あの人」――母は、もう動かない。
二度と動くことはなくなった。
それでも、あの人ならば、きっと次第に溶けてはいくのだろう。
だから、埋めたのだ。
母が動かなくなったことで、この世界のあらゆる万物のうち、唯一自ら動くことのできる存在は、一刻ただ一人となった。
人も車も、雨も雲も、鳥も虫も、影も日射しも――すべてが時を止めた、この世界で。
――ぶつかった人をもとに戻すのも、これからは、俺一人でやらなきゃいけないんだな。
静寂がつらくて、声に出して呟こうとしたけれど、喉が引きつって、できなかった。
目じりに向けて瞼を拭う。
視界の両端に、小さな涙の球が浮かぶ。
一刻は、それを手で寄せ集めて地面のそばまで押し下げると、上から踏みつけにじり、無理やり地面に染み込ませた。
靴の下に潰れた涙を敷いたまま、首から掛けた時計をそっと掴んで、その硝子蓋の向こうを見つめる。
生まれたときから、ずっと母と共にそばにあった、懐中時計。
その針が動くところを、一刻は見たことがない。
時計の針というものが、どんなふうに動くのか、一刻は知らない。
ただ、それをこれから先も決して知ることができない、ということだけは、知っていた。
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