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『……何?』
『……これ。……わたしとこうと、おもって……』
そう言って、母は、懐中時計を――時計に付いた鎖を絡ませた指を、一刻のほうへ差し出した。
鎖から、母の指がほどけて落ちる。
一方で、母の指を離れた鎖と時計は、そのまま空中で静止する。
一刻は、手の平ですくい上げるように、そっと時計を掴んだ。
時を計る機械。
時間の流れが存在しないこの世界では、なんの役にも立たないもの。
だからこそ、それを渡された意味が、一刻はなんとなく理解できた。
『ねえ……母さん』
動かない時計の針を見つめて、一刻は言った。
『ひとつだけ、聞いてもいい?』
『……ん』
母は、呻きに似た声を億劫そうに押し出した。
その一声(ひとこえ)は、もはや返事なのかどうかも定かではなかった。
だが、どちらにせよ、答えたくなければ、この人は答えることはないだろう。
そう思い、一刻は尋ねた。今まで、ずっと聞けずにいたそのことを。
『母さんは、どうして、この世界の時間を止めたの?』
時計を手の中に包み込んで、一刻は、地面に横たわる母に目を落とした。
母は、笑った。痛みに顔を歪ませながら。
だけれど、たとえ身体(からだ)の痛みに苛まれていなかったとしても、そのときの母の笑みは、どのみちやはり苦笑であったのかもしれない。
母は声を出すことなく、唇だけを大きく動かして、一刻の問いに答えた。
あの人が答えとして選んだ、五文字の言葉。
その中に、唇をすぼめる音が一つも含まれていなかったので、ゆっくりと声なく五文字を紡ぐ間、母の笑みは途切れることがなかった。
それからほどなくして、目を閉じた母は、動かなくなった。
苦しげな息も、痛みに呻く声も、身じろぎの音も、何一つ、聞こえなくなった。
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