一章 始まりの一日

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満月は、ファミレスでメニューも見ずにチーズケーキとドリンクバーを注文する。 ドリンクバーの割引チケットを財布から出して、店員へ渡す。 店員が離れると紅茶をグラスに注ぎ、準備が整った。 ルールブックは、道具の規定、用語、守備位置…、分かりやすく書かれている。 カラー写真で図や写真が乗っていてサクサク読めた。 トロリとしたイチゴソースの掛かったシンプルなレアチーズケーキが運ばれて、読んでは一口食べ、読んでは食べてを無言で繰り返した。 ルールブックの半分を読み進めたところで紅茶が無くなったので、一度席を離れる。 ドリンクバーでホットココアのボタンを押す。 ドリンクを淹れる機械がウィーンと音をたててココアを入る間に、満月はボンヤリと考える。 ルールを知った所で熱中する理由が分かるわけがなかった。 それどころか、道具は多いし、覚えることは多いし、インドアな満月には謎が深まるばかりで、首を傾げるしかなかった。 淹れ終わりを知らせるピーと間抜けな音を確認し、ココアを席まで慎重に運んだ。 その後は、残り半分のルールブックをパラパラめくって見たものの、興味がわくことなく読み物としての楽しみしかなかった。 時々すするココアは、甘くて美味しくて幸せの味がする。 図書室に行っても読みたい本が見つからなかったし、ルールブックを読んでも野球の楽しさは分からない。 これと言った収穫が無かったが、ココアを飲んだら、すぐにどうでも良くなった。 満月は、ココアとチーズケーキとたまにルールブックを心ゆくまで堪能すると、ファミレスを出た。 駅まで歩いて向かう。 西の空は日が沈みかけて紫に染まる。 部活帰りの生徒達もちょうど校門を出ていくところだった。 日の沈む空を見向きもしない部活帰りの生徒達はお喋りに夢中になって帰っている。 ゆっくりと歩く満月を抜いていった三人組の女生徒達は、今日の部活の感想を言い合っている。 監督をしている先生や先輩達へのグチ、自分たちの改善点。 歩く速さと比例して、お喋りのテンポも満月よりもずっと速い。 あっという間に豆粒くらいにしか見えなくなった彼女らの話は、練習がキツくて辛いと満月にも聞こえた。 しかし、三人共ずいぶんと楽しそうに話し合っていたのが印象的だった。 (友達と苦しい練習を乗り越えて大会に出るって青春だなぁ。小説に出来そう。) 満月は、羨ましくも結局、小説のことを考える。 オレンジと紫の空を眺めてトボトボ歩いた。 ふいに後ろから名前を呼ばれる。 「丸谷、何してんの?」 妄想を膨らませている間に、急に呼ばれたことで、満月の心臓は一度だけ大きく跳ね上げた。 驚いたことを相手に悟られないように、つとめてゆっくりと振り返る。 そこには同じクラスの近藤がいた。 「あ…伊佐見君」
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