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『なんていう曲なの?』
夕暮れに染まる音楽室で、寂しげにグランドピアノを弾いている女子生徒に、そう声をかけた僕は本来そんなヤツじゃない。
そのシチュエーションは確かに、ロマンティックで情緒的で儚げで、
標準的な男子高校生なら、思わず飛び込んでしまいたくなるような、トロンとした甘い空間だったけれど。
半年前の入学以来、突飛な理由で悪目立ちしていた僕は特に、流されることも酔うことも、魅惑のボーイ・ミーツ・ガールの世界に飛び込むことも、あってはならない状況だった。
だが僕は・・・。
「あなたは・・・」
ピアノの音が止んだ少し後に、彼女の声が聞こえた。可愛い声だった。
「あ、すみません。邪魔しちゃって」
サラサラとした長い黒髪が胸の辺りまで掛かっていて、最初は気づかなかったけれど、制服のリボンの色からして3年生のようだったので、僕は慌てて敬語に直した。
開け放した音楽室の窓から、夏の余韻が残った風が入ってきて、前髪で隠れた彼女の眼が見えた。やっぱり可愛かった。
「ううん、いいの。人から声をかけられること、ほとんどないから」
「え?」
「あぁ!気にしないで!変なこと言っちゃったね」
彼女は慌てた様子で顔の前で両手を横に振った。
先ほどまで鍵盤の上を流れるように走っていた手は、思っていたよりも小さかった。そして可愛い。
しかし、うちの3年生はよほど女の子を見る目がないらしい。こんなに魅力的な同級生に声をかけることも出来ないなんて。
「君って・・・もしかして、山本くん?」
ぎくり、と何処からか音を発してしまいそうになった。
思わず友好的に会話が繋がって舞い上がった僕の視界から、ピンク色のモヤモヤしたO2だかCO2だかが霧散して何処かへ消えていった。
やはり僕の不本意な名声は、2学年程度の垣根は軽く超えて広がっているらしかった。
そしてその僕の立っている”状況”は、いわゆる「恋」だの「愛」だのとはどうあっても混じり合わない奇妙なものだったのだ。
つまり僕は、流されて、酔ってしまって、飛び込んでしまった。
そして不知火 美季(しらぬい みき)は、めちゃくちゃ可愛い女の子だった。
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