番外編 花のようなひと

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 しかしその自制心も夜の林の中では利かず、闇がもたらす悪い囁きが、今までぎりぎりのところで押し込めてきた本心を、あっけなく暴露していく。  心から抱きたいと思ったのは、他の誰でもない。 同性で、主君でもあるあのひとだけだ。――  剛実は、臓腑が千切れそうなほどの渇望を感じた。このまま死にたくない。あたら命を散らせたくない。狂おしいほどの恋情を捧げているその相手へ、想いも遂げずに儚くなるなどできるものか――  肉体の深奥に潜んでいた魔が、その時目を開けたのだ。頭の一部だけが急速に回転し始め、積年の妄執を果たさんと計画図を描いてゆく。  玖珂家には、数年前に引き払ったものの、今も所有のみしている別邸が駒込にある。  怪しげな連れ込み宿では人目が気になるし、男同士で入るといかにも目立つ。だから剛実は、別邸の裏木戸が細い小路の奥にあったのをいいことに鍵を壊し、そこから中に入って、閉め切られていた日本建ての雨戸を外した。高い庭木と塀のおかげで、誰にも見咎められることはなかった。  空気を入れ換えて畳を拭き、買い込んだ新品の布団をひと組と、行灯などの照明器具を運び入れる。  書生たちのあけすけな雑談から聞き知っていた噂をもとに、浅草のいかがわしい界隈、その奥にある間口の狭い店で、とある〈薬〉を手に入れる。小さな硝子瓶に入ったそれは、効果はいかほどかは分からないが、飲ませてみるに越したことはなかろう。さらには、町を行く人力車夫の格好を観察し、それらしく見えるような衣服を揃える。  人力車は、かつて玖珂家で使っていたものが物置に一台あった。家紋が入っていないのが幸いだ。物置番が先に出征していたので、そこの管理を剛実が任されていたのだ。鍵を持っているのは自分だし、普段誰も立ち入らないから、俥がひと晩なくなっていても誰も気づかない。屋形に幌がついているので、それを下げてしまえば誰が乗っているのかは分からない。  着々と準備を整えながらも、頭の中ではがんがんと警鐘が鳴り響いていた。お前は何をやっているんだ、今ならまだ止められるぞと、蒼白になった理性が盛んに言い立ててくる。
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