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南方から復員することができたのは、敗戦から約二年後、昭和二十二年になってからだった。
三月の中旬、ほとんど着の身着のままの兵隊服と、わずかばかりの荷物を詰めた背嚢を背負い、剛実は横浜港に降り立った。出征してから、実に五年ぶりの帰還だった。
しかし東京は素通りし、一人、上野からそのまま東北行きの列車へと乗り換えた。復員船の中で病死した戦友の遺品を、彼の郷里である会津の実家に届けるためだ。
兵隊服の下、背中の引き攣れを思う。亡き友が戦場で危ないところを助けてくれたから、自分はこうして生き長らえることができたのだ。
書き残してくれた住所を頼りに生家を探し出し、母親と妹に遺品を手渡す。二人とも涙を流しはしたが剛実を歓待してくれ、愛息の話を聞きたがった夫人に引き留められて、何日かそこに滞在することになった。仏壇に線香を供えて手を合わせたのち、女ばかりで手が回らなかった家の修繕や、畑仕事の手伝いなどをして過ごす。
「それで小野さんは、この先どうなさるの?」
請われるがままに逗留しすぎてしまったので、そろそろと暇を告げると、夫人は残念そうにしながらも問うた。
「……」
剛実は言葉を詰まらせる。もちろん故郷である東京へ帰るのだが、即答できなかった。
少し考えるふりをしてから、答えた。
「とりあえず……出征前に奉公していた邸に行ってみます。母もそこにいるはずですので」
夫人はうなずき、涙を浮かべてつぶやく。
「こんなに立派な息子さんが戻って来たとなると、お母さまはさぞ喜ばれるでしょうねえ」
切符を都合してもらい、世話になった二人からの見送りを受け、東京行きの列車に乗る。混み合う三等列車の一隅にどうにか腰を落ち着け、剛実は、車窓を流れてゆく景色をぼんやりと眺めた。
農村のそちこちで、淡い桃色がけぶっている。東北では、ようやく桜が咲き初めてきたようだ。しかし目に映る景色は、どこか上の空だった。
おかしなものだ、と剛実は自嘲する。生きてやっと日本の地を踏めたというのに、この身体は東京へと運ばれてゆくのに、頭では今も帰ろうか帰るまいかと悩んでいる。母キクの安否ももちろん気になるのだが、それ以上に心にかかっているのは――誰あろう、あのひとの姿だった。
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