351人が本棚に入れています
本棚に追加
出征したことは、戦地に届いたキクの手紙から知っていた。無事に結婚したことも。式を挙げて数か月後に、高い学歴と身分を買われ、佐官たちの通訳として出征して行ったと。
それを読んだ時はほっとした。では苛烈な前線に送られることはなかっただろうし、もし生きているならば、任を解かれて無事に除隊したに違いない。
戦争を経ても、彼の面影は一日たりとも忘れたことがなかった。そしてやはり、胸に抱えた想いもまだ、埋み火のように心を燻らせている。
剛実は胸ポケットの釦を外し、その奥から小さな匂い袋を取り出す。
あの夜、袖から落ちたものだ。すっかり匂いは消え、縮緬の生地も色褪せている。過酷な戦場でも、あのひとの姿とこれとが、壊れそうになる己の心を支えてくれた。
しかしあんなことをしでかした自分が、今さらどの面下げてあのひとに会いに行けるというのだろう。
剛実は、車窓に映る己の顔から目をそらした。年月が経っていても、あれだけの暴虐を帳消しにできるものではない。もし、もしあのひとと顔を合わせた瞬間、おぞましいものでも見るような目をされたら……。
己の空想に、剛実はうなだれる。だが、それでもいい。当然のことだ。こうして無事に帰って来られた自分が、求めるものはもはや多くはない。あのひとが無事であるなら、もうそれだけでいい。生きているあのひとにひと目だけでも逢えるのなら、他に望むものなどない――
上野駅で列車を降り、在来線で麻布六本木を目指す。駅前には闇市が立っていたが、盛り場の周辺を離れるとまだ焼け跡も燻り、バラック小屋を建てて暮らしている人々の姿も目についた。
東京空襲は凄まじいものだったと聞いているから、もしや、玖珂邸もそれに巻き込まれたかもしれない……。
行きがかった通行人へ、剛実は恐る恐る訊ねてみる。
「すみません。この先の、玖珂伯爵邸は……」
「ああ、華族さまのお邸だろう。焼け残っているよ」
それを聞いてとりあえずほっとする。裏の離れの方に住んでいるようだ、と教えられたので、剛実は、記憶を頼りに屋敷町の通りを歩いて行く。防火のためか、若干ながら並びや区画が変わっていた。
最初のコメントを投稿しよう!