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懐かしい高塀が見えてくる。足が自然と逸り、剛実は、一部が崩れたままの塀の間から、馴染み深い邸を仰ぎ見る。
母屋である洋館は一部が焼けていたが、それほどひどい損害ではなかった。庭木も大半が緑の葉を茂らせているし、庭も、ほとんどが潰されて作物の植わった畑になっていたものの、住まう人の手を感じさせる様子をしていた。
心から安堵し、塀づたいに裏へと回る。表の真鍮の門は閉まっていたからだ。通行人が「裏の離れ」と言ったのは、日本建ての方か、それとも、家令夫妻が住んでいた和洋折衷の方だろうか。
と、その時、崩れた塀の隙間から人影が見えた。ほっそりとした身体つきの、若い男だ。とっくに葉桜となった太い木に手をつき、頭をややうつむき気味にしている。
どくん、と心臓が跳ねた。あの背格好、あの雰囲気、あの長い黒髪――立ち尽くしてその姿を凝視していると、相手がふと顔を上げてこちらを見た。葉陰から日向を見て目が眩んだのか、目許を少し眇めさせる。
「……――、」
焦点が合った両の瞳が、大きく見開かれる。嫌悪はなかった。ただ、驚きと喜びとが彼の瞳から迸る。
その瞬間の安堵と感動は、いかばかりであったろう。やがて出てきた家人たちに出迎えられ、剛実はようやく心身の重荷を下ろした。だがそれも束の間、戦後の華族が置かれている苦境を知ったのと、邸の中で信じ難いいざこざがあったのとで、なかなか気持ちを落ち着けられない毎日が続いた。
だが、その難局を乗り越えたあとは、剛実が予想もしなかった日々が訪れた。まさに蜜月と言っても良かったかもしれない。身も心も結ばれたあのひとと武蔵野の一角に身を落ち着けて、そして、瞬く間に一年ほどの時が過ぎた。
室内にまで、夕暮れの影が忍び込んでくる。
剛実は、居間の畳から腰を上げた。夏の長い日もゆっくりと短くなってきているな、と思いながら台所に入り、一人のための夕飯を用意する。
日中は買い物に出かけたり、庭を少しいじったりして過ごしたが、特に何もしないまま一日が終わってしまった。台所や私室を片付けてはみたものの、さしてものもないし、家のことは毎日まめに行っているので、改めて整えるべきところはなかった。どうも、一弥がいないと自分は随分暇な人間らしい。
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