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この上ない安堵と幸福感が、爪の先にまで満ち満ちてゆく。心まで浸してくる甘い蜜の波間にたゆたっていると、最愛の相手が耳許で優しく囁いた。
生涯、あなたのおそばにおります。――
甘やかな契りの言葉。そして、二人の未来を約束する言葉。一弥も相手に腕を回し、この先もずっと変わらぬ献身と慈愛を誓った。
「では、行って来るからな」
外出着を纏った一弥は、玄関先で振り向いて相手に声をかけた。
「はい、行ってらっしゃいませ。一弥さま」
剛実が慎ましく身を折り、一弥を見送る。彼の温かいまなざしを受け取った一弥は、小脇に携えた鞄を抱え直して、しゃんと背筋を伸ばす。
津久井が見繕ってくれた二人の新しい住まいは、東京の郊外にある小さな平屋の和洋折衷の家だった。武蔵野の森の面影を残した静かなところにあるので、翻訳に勤しむには最適な環境だ。ささやかな我が家だが、二人だけの寓居を持てたことがしみじみ嬉しい。ちなみに、津久井がオーナーを務めるホテル群は、間もなく着工の予定だそうだ。名前は、一時代を彩った華族たちに敬意を表して〈プリンスホテル〉とつけられると。
剛実は、近隣にある運送会社に職を決めた。戦火を免れた地方都市から食料を運搬するために、人手はいくらでも欲しいのだそうだ。
勤務時間が夕方からの時は、剛実はこうして翻訳の打ち合わせに外出する一弥を見送ってくれる。が、逆に、一弥が出勤していく剛実を見送ることもある。この前初めてそうしたら剛実は「どうも妙な心地がしますね」とくすぐったそうな顔をしていたが。
養子の件を貴仁に打診してみると、彼は驚きはしたが、満更でもない風だった。叔父さまの名を継げるのならと、前向きに考えてみたいような素振りを見せてくれた。強要はしないが、そうなってくれたらこの上なく喜ばしいことだ。
通りの角を曲がる際に何気なく振り向くと、剛実はまだ門の前にいた。一弥はほほ笑み、早めに戻ると手を振ってみせる。剛実は、少し考えたのちに同じように手を振り返してくれた。生憎顔が見えなかったが、きっと同様の笑顔を湛えていたに違いない。
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