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番外編 花のようなひと
昭和二十三年、晩夏。
「剛実、では行ってくるからな」
まだまだ暑い中、きっちりと洋装を着込んだ一弥が、玄関先から声をかけてくる。剛実は靴べらを受け取りながら「お気をつけて」と板敷きの廊下に膝をついて相手を見送る。
今夜は横浜にて、学習院の同窓会があるのだ。久しぶりに盛装したかつての主の姿を前にして、剛実はさりげなくまぶたを細める。和装ももちろんだが、洋装姿も清々しく端麗で、いつ見ても見惚れてしまう。
「あまり遅くならずに戻るつもりだが、交通事情もあるからな」
「こちらは構いませんから、お友達とゆっくり旧交を温めてきてくださいませ」
週末で運送会社の仕事が休みだったので、剛実は玄関先まで出て恭しく一弥を見送った。「もう過剰に畏まる必要はないんだぞ」と再三言われているものの、長年の習慣だったので、今もそれが抜けきらないのだ。
駅へと通じる角を曲がる背中を見届けると、剛実の口から誰にともなくふっと吐息がこぼれた。意識はまだ、背筋のしゃんと伸びた凛々しい後ろ姿を追いかけている。
彼の背後に慎ましく控えていたかつての日々が、連想のように眼裏をよぎる。そう、その姿を見つめ、叶わぬ想いに身を焼き焦がしていただけの日々が。
戦争を経て、その上さらに様々なことがあって、今このように二人で暮らしているわけだが、実はまだ信じられないくらいなのだ。当時の自分――玖珂家に奉公していた頃の自分に今現在の様子を伝えたら、目をむいて驚くことだろう。まさか数年後、主君である一弥と二人きりで暮らし、あまつさえ……恋人同士として枕まで交わしているなんて。
玖珂家にようやく誕生した男児に寄せる期待は、並のものではなかった。
当主である威一郎は、極めて厳格な教育でもって一弥を鍛えた。幼い子供がこなすには難儀とも取れる内容だったが、一弥はそれによく応え、学問のみならず武芸にも励み、さらには初等科にして外国語までを習得し家庭教師らを驚かせるほどだった。
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