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「一人で茶を飲んでもつまらぬから、剛実も座れ」
と、傍らを指してきたので、剛実は「では、ご相伴いたしましょう」と慎ましく従った。命令ではなく願望であることは、その表情からすぐに察せられた。
常に自分を律し、大勢いる奉公人たちの前でも決してだらけた振る舞いをしない一弥だが、こんな時ばかりは歳相応の無邪気な顔も見せてくれる。それはもしかして、ごく近しい位置にいる剛実だけが垣間見ることができる表情だったかもしれない。いつも凛々しく結ばれた口許が自分のそばでだけ綻ぶのを、剛実は胸くすぐられる心地で眺めていた。
ビスケットをつまみながら、束の間、互いに砕けた話を交わす。学校のことや最近読んだ本のことなど、和やかな会話は途切れることがない。
「剛実。最後の一枚は半分こにしよう」
「いいえ。それは一弥さまが召し上がってください」
一弥は少し考え、真剣な面持ちで申し出る。
「腹がくちくなると勉強に支障が出る。だから、お前にも食べてもらいたいんだ」
「……左様ですか。では、いただきましょう」
こちらを気遣う心ばえが面映ゆい。主である彼とそうやって密やかな情を交わし合うことは、朝から晩まで雑用に追われる剛実の毎日の中で、心安らぐひとときになっていった。
しかし歳頃になるにつれ、その思いは次第に色合いを変えていった。主君に寄せる忠誠、勿論それは鈍ることなく剛実の胸にあったが、単なる主従の情とは異なるものが萌芽し始めてきたことを、何かにつけて認めざるを得なかった。
剛実が十五、一弥が十三の夏だった。
その年の夏はひどい暑さで、八月も終わろうというのに一向に気温が下がらなかった。であるからか、外出先から帰って来た一弥が、庭で行水したいと言い出したのだ。
裏庭の、木立が陰を作る辺り、着物の袖をたすき掛けした剛実はそこに水を張った木盥を置き、柄杓と手桶も用意して相手を待つ。
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