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荷物を届け、邸内に招き入れられたが長居する前に暇をする。表に出ると、屋敷町はひっそりと夕間暮れの色に染まりつつあった。
帰りは俥を拾うと言ってあったので、剛実が、一弥を伴い人力車の溜まりへ向かおうとすると、
「剛実」
唐突に声をかけられた。一弥は、まぶたをやや伏し目がちにしてつぶやく。
「よかったら……少しその辺りを歩かないか?」
剛実はまばたきし、相手の顔を見返す。
家路を急ぐ必要はなかったから、特に否はなかった。それに、そうすれば少しでも彼と二人でいられる時間が増える。嬉しさを押し隠し「よろしいですよ」と剛実はうなずき返す。
家々の間を抜けて、川の方へと足を向ける。晩春の夕陽が照らす長い土手を、並んで気ままに歩いていく。両脇には何本か桜が植わっていたが、今はもう大半が葉桜だ。
人通りはさして多くなかった。自転車に乗ったご用聞きや、学帽にマント姿の学生が、時折斜めの影を引いてすれ違っていくだけだ。
一弥とこうして並び歩くのは、果たしていつぶりのことになるのだろう。小さい頃なら手を繋いだものだが、今はもちろん、つかず離れずといった距離を慎ましく保つのみだ。何か話をしたいと思ったものの、この沈黙が心地よくもあるので、橙色の斜光を浴びながら二人歩き続ける。
剛実は横目でさりげなく、一弥の頬を見つめる。
先日、孤児院へ稽古をつけに行った時に負った傷はもう塞がって、ごくごく薄いかさぶただけが残っていた。痕が残るほどの怪我ではないようだったが、それでも、完治してよかったとほっと胸を撫で下ろす。
あの時も相当に心を乱してしまったが、その二年ほど前、一弥に懸想文らしきものが来た時も、危うく逆上するところだった。
〈弥生の君へ〉という表書きを見た時は心底、全身の血が爆発しそうな気持ちを覚えた。あんな甘たるい文句で我が主君に言い寄る相手に猛烈な嫉妬を覚え、臓腑のすべてが灼き尽くされそうな憤怒を味わった。
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