朔の夜

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 息を呑んだ唇ごと口中に飲み込まれた。影の主は、がっしりとした体つきのくせに音もなく動き、私を組み伏せる。  震える手で相手を掻き抱くと、覚えのある体臭が私を包む。驚喜して声を上げたくなるのを必死にこらえ、忙しなく動く舌をうっとりと受け入れていると、障子が敷居の溝を滑る音がした。男の手は私の頭と胴に回されている。私の口を吸いながら、足先でそっと障子を閉めたらしい。その器用さが懐かしく、可笑しかった。  私が笑ったことで男の動きがぴたりと止まり、ようやく唇を解放される。 「静岡ではなかったのですか?」  いつから庭に潜んでいたのだろうか。着物越しに伝わる、男の手の冷たさに情が掻き立てられる。 「遠駆けのついでだ」 「戯言を。誰かに見つかっては痛くもない腹を探られます」 「徳川宗家にはとっくに嫌われている。それに今はただの盗人だ。愛しい男の唇を奪いに来ただけのな」  芝居の一幕のような、図々しいほどの浅薄な言葉に思わず口元が弛む。相変わらずだ。この二つ年下の男は、計算でこういうことをやる。 「和歌山藩預りの謹慎中の男をですか?」  軽く笑った吐息が私の鬢を揺らす。額に唇を押し付けられて、深く息を吸う気配がした。 「今の屋敷の庭にはクチナシがある。皐月になると白い花弁からお前の香りがするのが辛かった」     
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