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「あ、良かった井上さん! 早く早く」
翌日、歩はいつも通り始業四十分前にオフィスに到着したというのに、事務の女性に腕を引っ張られていた。
「おはよう、戸田さん。どうしたの?」
「私ちょっと前に出社してきたんですけど」
普段あまり慌てることのない戸田が落ちつきなく話す様子に、歩も何事かと身構える。オフィスはまだ人気がなく、当番の別の女性が遠くの方で植木に水を差しているだけだ。
「入り口のところに男性が立ってたんですよ。で、お名前を伺ったら杉谷法律事務所の芹澤さんっておっしゃって、井上さんを待ってるって言うんです」
その名前を聞いて歩もぎょっとする。
「アポなしで来たから勝手に待つとおっしゃるんで、とにかく第一会議室にお通ししました」
普段メーカーや同業者とこのオフィスで打ち合わせを行うことはあるが、顧客がわざわざ訪ねてくることは少ない。ただならぬ空気を察した戸田が、心配げに歩の顔色をうかがっている。
「わかりました。すぐ行きます。三谷さんは来てる?」
「三谷さんは引き継ぎで名古屋です」
援護はなしだ。歩は覚悟を決めて第一会議室をノックした。
会議室の椅子に掛けているかと思った芹澤は扉のそばに姿勢よく立っていた。歩が口を開こうとするより早くがばりと頭を下げる。
「昨日は失礼いたしました」
こちらが言わなければいけないと思っていたことばを先に言われ、歩はあっけに取られた。
「大変失礼なことをしました。昨日のうちに謝るべきだと思ったのですが、井上さんの連絡先を知りませんでしたし、会社の方には戻らないとおっしゃっていたので、今朝一番で参りました」
芹澤はそこまで一気に述べて頭を下げ続けた。
担当者を変えろ、最悪の場合は御社とは契約を切る、と言われるかもしれないと身構えていた歩は一気に力が抜けた。とにかく昨日の歩の無礼を怒ってはいないようだ。
「こちらこそ失礼しました。びっくりしてしまって……」
何といっていいかわからず歩が口ごもると、芹澤が少し顔を上げて歩の顔を覗き込んだ。
「いえ、失礼をしたのは俺の方です。本当に申し訳ない」
すみません、ともう一度自分の言葉で謝り、ようやく芹澤が顔を上げた。
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