第1章

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「おはようございます」  とっぷりと日の暮れた深夜、井上(いのうえ)歩(あゆむ)は夜の闇のようなブラックスーツを着たドアマンに挨拶をした。たとえ現在の時刻が二十三時であろうと、現場入りするときの挨拶はおはようございます、と決まっている。  六本木の表通りから一本奥に入り二股の道の右側を進むと、人通りがめっきり減り、街の喧騒もはるか遠くになる。明るさが一段落ちた通りで、歩は体格の良いドアマンの前に立っていた。  ドアマンの後ろに立つ建物は、一階部分が真っ黒だ。黒く塗装された壁に黒い扉がはめ込まれ、錆の浮いた金のドアレバーだけがぼんやりと浮き上がって見える。看板や表札がないので何を営んでいるのかわからない。物々しいドアマンの存在もあり、興味本位で覗いてみようとは思わない、そんな雰囲気の建物だ。  歩が慣れた様子で扉に手をかけようとすると「未成年の方は」という抑えた声とともに行く手を阻まれた。長年通い続けているというのに、新入りのドアマンが入るたびにこうなる。歩は内心でため息をつきながらドアマンににっこりと微笑みかけた。 「ポールダンサーのユウです」  ドアマンが一瞬歩の顔に見入る。慌てて視線を外し、胸のポケットから二つ折りの紙を取り出した。視線が紙を上から順に辿ってゆく。 「……失礼しました。お疲れさまです」 「お疲れさまです。今日もよろしくお願いします」  歩の顔を確認したドアマンが重いスチール製のドアを開けてくれる。  フットライトだけが灯る暗い階段を下り、小さな洞穴のような受付を「おはようございます」の一言ですり抜ける。こちらは顔見知りのスタッフが軽く顎を引いただけで通された。 身分証を呈示していた二人組の客が、ちらりと視線を寄越した。ここに客ではなく演者側として入るのは何度経験しても気恥ずかしいが、同時に少し、優越感もある。  ここ六本木のクラブ『basement(ベースメント)』は、メインフロアの各コーナーに四本のポールが立つ幻想的なクラブだ。客の年齢層は比較的高めだが、週末にはLGBTイベントやフェティッシュナイトなどの独特なイベントを行い活況を呈している。
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