ポップコーンラブ

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 あの人を尊敬していたのは本当で、今もその気持ちは変わらない。ボツだと突き返された作品だって、僕にはどれも価値があるように思えた。あの人がどれだけ心血を注いで書き上げたか知っていたから。今思えば、だからこそ冷静に読めなかったのかもしれない。  あの人がスランプに陥っていくのと同時に、僕の作品は映画化が決まった。彼が欠かさず買っていた文学雑誌に連載を始めたのもその頃で、何もかもタイミングが悪かった。あの人との距離は離れるばかりで、縮むことは決してなかった。僕は既に過去のものになっていた関係にしがみつき、前を見ようとしなかった。  どうせなら、僕がプレゼントしたアウディで行ってくれたら良かったのに。律儀な彼は、合鍵と一緒に車のキーも僕の手のひらに押し付けて行ってしまった。  あの人が乗った小さな軽自動車は、もう随分前に走り去っていた。僕がいる側とは反対の、もう交わることのない方向へ。  暗く濁った世界の中、街灯が浮かび上がるように点灯しだす。 ――帰らなくては。  ゆっくりと振り返り、そこで初めて人がいたのに気がついた。  マンションのエントランスの下、雨宿りをしている男がいる。黒ずんだ蛍光色のリュックははちきれんばかりに膨れ上がり、バックパッカーのようだ。植え込みの間に座り込んでいたから気が付かなかった。  男は僕を見て微笑んだ。  浅黒い肌とゴールドブラウンの髪、緑の目が印象的で、自分の容姿の価値を知っている目だった。 「今夜泊めてくれる?」  一部始終を見ていたなら、僕が男に振られたばかりのゲイだと察しがついたろう。いいカモだと思ったか。  いま口にした言葉だって、もしかしたら、彼が話せる唯一の日本語って可能性もある。立ち上がった彼の長身と均整の取れた体つきに、実際彼ならその一言だけで世界中渡れそうだと感じた。  常識的な僕は雨に打たれて泣きじゃくりたいと思っても、そんなことはしない。お気に入りのスーツを濡らしたくないし、人に気の毒な人間だと憐れまれたくもない。  だからその代りに、僕は男を拾った。  臆病な自分にしてはかなり思い切った行動だったけれど、彼の目に憐れみも嘲りもなかったのが、僕の背中を押した。  当分まともに書けそうにないと諦め、書きかけの原稿を引き出しにしまった。代わりにバーボンをグラスに二つ作って出す。
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