ポップコーンラブ

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 ここのところ眠れぬ夜が続いていた。それが数週間分の睡眠を取り戻したかのように、身体が軽い。 「おはよう」  すっかり身支度を終えた彼が、湯気の立ったコーヒーカップを片手に寝室に入ってくる。彼の白いシャツとジーンスを朝陽が照らし、ハマり過ぎた光景になんだか笑いがこみあげて来た。  出来過ぎた光景が、セックスというマジックに掛かっていた僕を正気にさせる。 「朝食、作ったよ。一緒にどう?」 「ありがとう」  ベッドの上でコーヒーだなんて、初めてだ。彼はベッドの端に腰掛け、僕の髪を撫ぜながら、臆面もなく見つめてくる。慣れない視線に緊張しながら、コーヒーを口にすると、なぜか僕よりずっと嬉しそうな顔をした。言えば、映画みたいにベッドに朝食も持ってきてくれそうな勢いだ。これも昨日僕が願ったことの続きだろうか。夜の記憶だけでなく、朝の記憶も書き換えようとしてくれているのだろうか。だとしたら、随分律儀なバックッパッカーだ。 「ねぇ。俺、もう少しここにいていい?」  彼の瞳を見て、僕は落胆した。憐みの色が見えたからだ。エントランスで見たときにはなかった。もっとフラットに僕を見てくれていた。寝床と引き換えに、男を買うただのさみしい男だったはずなのに。それとも、彼の僕への見方が変わってしまうほど、昨夜の自分は痛々しかったのだろうか。 「なんで?」 「もう少しだけ、あなたのそばに居たい」 「心配してくれてありがとう。でも、僕はもう平気だよ。君も慰めてくれたしね」 「……昨日、泣かなかったから」 「え?」 「恋に破れたら、泣くものだろ? あなたはまだ泣いてない。だから、それまでそばにいるよ」  確かに僕はまだ泣いていなかった。彼が居たから、そんな気になれなかっただけなのだけれど、彼には不思議に見えたのかもしれない。 「僕は一人でも平気だから」 「でも――」  僕はNOを強めに発音した。頭を振って、意思を明示する。 「結構だ。むしろ一人にしてほしい」  彼がいれば気が紛れる。しかし、失恋の痛みが消えるわけじゃない。名前も知らない奴の前で、めそめそ泣くのなんかまっぴらだった。 「……分かったよ」  彼の手のひらが僕の頬に触れる。その手は温かく、小さな痛みを僕の胸に残した。    彼が乾いた洗濯物をリュックに詰めているのを見て、気がついた。脇に置かれた小物類の中に国際免許がある。
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