ポップコーンラブ

8/15
73人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ
「これやるよ。僕は車の免許持ってないんだ」  キーを前に、彼はもの言いたげな視線を向けてきた。仕方なしに、僕はみじめな自分を説明する。 「恋人にプレゼントした車なんだ。でも僕は運転しないから。良ければ君が乗ればいい」  気持ちの離れていくあの人を引き止めようと贈った車だった。それで持ったのはほんの三か月だった。それでも買ったことに後悔はない。ほんのひと月でも長続きするなら、あの時の僕はなんだってしただろうから。  お前は俺には重すぎたよ。  合い鍵と一緒に返された言葉を思い出し、思ったより胸の痛まない自分に驚いた。彼のおかげかもしれない。 「じゃあ、借りるよ。北海道にまだ行ってないんだ」  彼は軽く笑って、鍵を受け取った。ガソリン代も渡そうとしたら、要らないと返された。  小雨にけぶる高層ビル群から視線を真下へ落とす。  角地に建つマンションの窓辺から下を見下ろすと、シルバーのアウディが交差点を越え、走り去って行くのが見えた。それは小さな軽自動車が去った方向とは違うけれど、やっぱり僕とは二度と交わることのない道だ。  けれど、さみしいとは思わなかった。  出会いと別れの繰り返しが日常の一つだと分かったから。刻んでいく日常が繋がって人生ってやつになるんだろう。  なんとなく納得して、僕はまた日常を送った。失恋の影響もなく、原稿は締切に間に合ったし、新たな新作の構想も出来つつある。  編集との打ち合わせから帰ってくると、マンションの前に黒のマセラティが停まっていた。特徴的なフォルムは遠目からでも目を引いた。  下りて来た男は、あの日の緑色の目をしたバックパッカーだった。カジュアルだが、シャツも靴も時計もマセラティを所有する男に見合ったものに変わっている。こうしてみると、高級品を身にまとうのが板についている気がした。 「車を返しにきたよ」  数か月前よりずっと流暢な日本語に、彼がこの国を満喫したのがわかった。 「いや、僕が君にやったのはアウディだ。マセラティじゃない」 「同じ車を返された方が嫌かと思って」 「それはそうかもしれないけど……」
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!